草野球とアメリカン・フォークが好きな「村長」です
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中国国内にあるイオンデパートが襲われ、8割の商品が強奪され、店舗は全壊。逮捕者は出ていないそうだが、そこで働く日本人社員は、「デモじゃない。テロだ!」と恐怖を語っていました。また、今日9月18日は「国恥の日」だそうで、さらなるデモ拡大が懸念されているとか。国恥って、よく言うヨ。満州人が言うのならまだしも。関東軍が侵略者なら、中国人(漢人)も同じ。81年前の事件、それも協定が結ばれて決着している事件を持ち出して「デモネタ」にするなんて。
ジャスコだってこんなことは想定内だろう。ただ、中国政府は「損害は日本が負え」と言ってますから、破壊はエスカレートするでしょうね。邦人保護は中国政府の責任の筈。日本政府は、国際社会に大きな声で訴えるべきでしょう。あー、政権が変わってからネ。PR
演歌は村長にとっては苦手(あまり聞かない)のジャンルの音楽ですが、一人だけ気になっている歌手がおります。今日の芸能ニュースで、「涙の再出発!」と騒がれている美川憲一君です。同じ長野県出身、というより近所に住んでいたこともありますが、同期生で諏訪中学校では隣の隣のクラスでした。おっと、歳がばれちゃいましたね。
中学時代の百瀬君は知らないのですが、高校の時に上京したらしいですね。勿論、彼が諏訪市出身と言うことを知ったのはずーっと後のことですが(当然売れてからです)、ヒット曲を出す度に陰ながら応援はしておりました。
元マネージャーの現事務所社長とも和解し、新曲と共に再出発するようです。頑張って下さい。CDは買いませんが、応援してますよ!って、それじゃダメじゃん?
昨夜のプロ野球、中日-巨人戦について。
東北シリーズで三連敗はダメだろう、と思いつつTV観戦するも、エース内海が打たれ3-1に。ところが4回、阿部の安打を口火に高橋、村田も続き一死満塁という絶好機。打席には7番古城。彼も粘った末に渋く三遊間を破る。
3-2、一点差だ。しかし、解説の篠塚氏は言う、「4連打で一点とは・・・」。ははは、阿部、高橋、村田が走者では単打で二点は期待できない(泣)。ここで8番藤村が初球の甘~い直球を振りぬくと右中間を深々と破る走者一掃の三塁打。3-5と一気に逆転した。
結局、その後も阿部の2ラン、藤村の二塁打などで加点し3-9と快勝したのだが、今日の記事のカテゴリーが「野球」ではない理由は、ヒーローインタビューのアナウンサーの酷さにあった。久々のお立ち台は、文句なく藤村だ。逆転の三点三塁打と一打点をあげた二塁打の、プロ初となる一試合四打点の活躍だったからだ。
ところが、現地福島局のアナだろうか、質問が酷過ぎた。逆転の三塁打を、「見事な逆転の二塁打でしたね」。さらには、自身初となる一試合四打点を、「一試合五打点の活躍でしたね」。
インタビュー後、放送担当のアナが「一試合四打点です」とクールにフォローしてたのには思わず笑っちゃいました。
マジックも24となり、連敗をスカッとストップしたのはいいが気がかりなことも。好調だった打線の中で一人「蚊帳の外」だったのが坂本。特に悪い点は見当たらないので、また得意の固めうちで打率も上がってくるとは思いますが、いつもはポーンと外野フライをあげるのに好機で犠牲フライが打てない。まあ、中日の投手の攻めが良かった、と前向きに捉えて次に進んで下さい。三連戦が秋田、岩手、福島ということで、八戸で野球をしていた坂本が「いいところを見せようと」力んだのでしょうか?
朝早く三内の霊園に行ってきた。ここには母方の親戚の墓があり、数年前までは毎年墓参に行った場所です。数年前までは、お墓の周囲は緑の垣根で覆われており、前面には白いペンキで塗られた門扉があったので遠くからでも直ぐに「あっ!あそこだ」と判った。今日、数年ぶりに訪れてみて「先祖の墓」を探すのに苦労した。
今日霊園に行ったのは、多分昭和20年7月28日に亡くなった村長の亡母の妹、H子ちゃんをお参りするためだ。彼女は12歳、亡母が20歳のときだと聞く。あの青森大空襲の犠牲者の一人である。
実は、このH子ちゃんに関してエピソードがある。
村長夫婦の新婚旅行は青森だった。遠く離れた信州までは来れなかった遠い親戚や、高齢のために出席を断念した祖父母に新婦をお披露目する目的もあってのことだが、村長の妻が初対面の親戚に何故か大人気なのだ。行く先々で「H子ちゃん、よく来たのー」という言葉が聞かれた。
そう!S20年に亡くなった叔母と妻は同姓同名だったのです。
青森市民にとって忘れることの出来ない日、それが7月28日である。そして我が家にとっては、二年前に亡くなった父の命日でもある。三回忌法要のために久しぶりに来た孫たちに、「今日は何の日だ」と聞いてみた。「ひいお爺ちゃんの亡くなった日」は直ぐに返ってきたが「青森空襲の日」は出てこない。
ヒントとして、「国道から海手に向かう道路(税務署通り、柳町通り、八甲通りなど)が国道並みに広いのはなぜ?」、と聞くと「ねぶたが通るから」だって。
昭和20年に入るとB29の本土爆撃はその激しさを増した。3月に東京を空襲したのを機に青森市は国道から海手の主要道路を拡幅し、焼夷弾による延焼に備えた。なんでも沿道の家を3,000戸ほど強制解体しての大工事だった。*ちなみに7月初め米軍は空襲の予告ビラを投下。これを見た青森市民が市内から避難を始める。これに対し国と県は食料配給を停止するなどのペナルティを発表し、市内に戻るように説得。市内に戻った市民など1,018名が命を落とした。これは、従来の焼夷弾をより強力にした新型爆弾が使用されたためである。道路拡幅もバケツリレー、簡易防空壕も役に立たなかった。
村長が小学生の時、夏休みで訪れていた頃の税務署通りの大町近辺には「に組」の大型ねぶた小屋が建った。今より5,6メートルは道幅が広かったと思う。当時は近所の仲間との遊び場だったり、紙芝居の自転車が来ると人だかりが出来た。この細長い空き地が、戦争の産物だったと気づくのは高校生になった頃だった。