草野球とアメリカン・フォークが好きな「村長」です
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先日のNHK-TV「歴史秘話ヒストリア」で山口県出身の詩人、金子みすゞさんを取り上げてました。彼女はいわゆる投稿詩人で、東日本大震災後のTVから流れた「こだまでしょうか いいえ誰でも」で知られる大正時代の主婦だそうです。最後の「いいえ誰でも」は、なんとも味のある表現ですね。
番組内では鯨漁が盛んだった山口県にある鯨墓も紹介しておりました。捕った鯨や母鯨の胎内にいた鯨の胎児を供養するためだとか。見ていて、幼少期に見た小さな墓を思い出した。村長が7歳くらいまで過ごした、村でも有数の大農家で、牛や馬、羊、犬を飼っていた。一族の墓の横にあった小さな墓は、過去に亡くなった家畜を供養するためにした立てられた。
話は変わって、最近民放TVで流れているACの歌がおかしい。
♪ ながいぼうとみじかいぼう ささえあったら ひとになる ・・・ ♪
歌っているのはムッシュかまやつ氏だと思うが、これを聞いた子供たちは「人という字は、人と人が支えあっているから出来たんだ」と思い込んでしまうのでは?
村長の記憶では、「人」という漢字は象形文字で、一人の人がやや中腰で立って手を前に垂らしている形だと習った。けして、長い棒と短い棒ではない。PR
♪ 阿佐ヶ谷の 路地裏の小さな店で
僕たち二人 出会ったよね ・・・ ♪
と、歌ったのは松野こうき。「君に乾杯」という歌だ。
村長は学生時代の殆どを、阿佐ヶ谷周辺で過ごした。最初の二年間を過ごした中野区の下宿も、JR阿佐ヶ谷駅まで徒歩20分、高円寺までは22分だった(最も近いのは西武新宿線の都立家政駅)。三年目からは、弟と阿佐ヶ谷北のアパートで暮らした。
さと、この歌に出てくる「小さな店」が何の店で、何処にあるのかは知らないが、阿佐ヶ谷の路地裏の小さな店には幾度と無くお世話になった。主に北口だったが。
先日、ある友人から「あさがやゴールド街」が消える、との情報がもたらされた。阿佐ヶ谷南の長いアーケード街は知っているが、ゴールド街は初めて聞く。もしかしたら昭和40年後半以降に出来たのかもしれない。
時代の流れ、と言ってしまえばそれまでだが、人の流れと共に繁華街も様変わりするのだろう。
阿佐ヶ谷北のアパート時代で忘れられないのは、アパートの斜め前にあった小さな商店だ。駄菓子やパン、ガム、チョコレートなどを売っていた。この店でパン(弟と二人分)を買うと、その倍くらいおまけをくれる。二人はいつしかこの店を「おまけパン屋」と呼んでいた。早稲田通りに面したあの店はまだあるのだろうか?名前も知らない小さな店だったが、万年ゲルピン学生におまけしてくれたお婆ちゃんに感謝、感謝!
10日の月曜日、玄関先で滑って転んで右膝と右腕を三和土に強打。幸い打撲と擦り傷で済んだのだがキーボードを打つのにも不自由、マウスを操作しても右腕に痛みが走るので、今日までブログもお休み。
妻が、「水撒いたから気を付けて」と言ったのに、若いつもりでヒョイと家に飛び込もうとしてコケてしまったのだ。カッコ悪いので、その場は痛みを堪えていたのだが、擦り剥いた膝がズボンに擦れて痛むので、大きな絆創膏を張ろうと探しているところを妻に見つかってしまった。「消毒しなきゃダメでしょ。お馬鹿さんねぇ」だって。
昭和30年代前半、「逆帰宅部」だった村長は、ほとんど家にはいなかった。今みたいにゲーム機は無いにしても将棋や碁、トランプに興じることは少なかった。周りの仲間も皆、膝小僧には赤チンや絆創膏。うさぎを追ったり、小鮒を釣ることは無かったが、三角ベースやボール当てゲームの毎日だった。そして、そういう場所を見つけて遊んでいた。
今の小学生は?遊ぶ場所を探すのが苦手らしい。近所には冬の雪投げ場があり、三角ベースには十分な広さなのに、遊ぶ児童はいない。
もう40年位前、東京は中野区の下宿に野球好きの仲間がいた。とある日曜日、村長と徳島のH君は下宿の浪人生を誘って近くの小学校の校庭で野球をやっていた。誰もいなかったので思う存分走り回っていた。すると、先生らしき人が現れ、「一般の方はご遠慮下さい」と追い出されてしまった。
さらにさかのぼって高校一年の時、諏訪市の湯の脇というところに住んでいた。この時の遊び場は想像を絶する空き地だった。広さは200坪くらいなのだが、大きな石がごろごろと転がっており、それを囲むように大樹が茂っている。ここで野球をするのだが、外野手は大きな石の上で守る。さらに大きな飛球は大木に当たっていろんな方向に跳ね返ってくる。まるでピンボール状態だ。あの空き地は今もあるのだろうか?
久々の膝絆創膏を見ながら、懐かしい思い出に浸った村長でした。
昨日、八甲田と岩木山で初冠雪が観測された。平年より二週間も早いという。ははは、地球寒冷化だー
テレビのローカルニュース映像には、紅葉狩りを楽しみに八甲田に来た観光客が思わぬ降雪にビックリしている様子が映し出されてましたね。
初冠雪を観測するのは、気象庁の職員。青森では、花園町にある青森気象台の職員が屋上で肉眼により4、50キロも離れた山を眺めて決めるのだそうです。きっと視力2.0とか3.0、4.0の専門家がいるのでしょうね(笑)。
曇って視界が悪い日はどうするんでしょうね?考えると夜も眠れない(嘘)。ウィキにでてました。<雲などによって山頂が目視できない場合、たとえ山頂に積雪があったとしても、麓から山頂が積雪によって白くなっていること見ることができず、雲が晴れるなどして山頂が見えるようになった後になってから初冠雪が観測されるというタイムラグが発生する> だそうです。
ところで、冠雪は snowcap 、初雪は first snow 。では、初冠雪は? first snowcap でいいんでしょうか?
「ねぶた囃子の会」の友人から聞いた、八戸市出身のS君の話。
S君は3年前に八戸の高校を出ると地元の水産加工会社に入った。そして勤務地として青森市の会社を選ぶ。八戸本社ではなく青森支社を選択したのは、「ねぶた祭り」、それも「お囃子」に興味があったからとのことだ。
二年前からねぶた囃子を練習。今年は晴れの本番デビューとなるはずだった。いや、デビューは果たしたのだが3.11以降、悩んだという。家族や友人を呼んで晴れ舞台を見せたいが、故郷のことを考えると気が重くなったのだ。
そんな時彼を後押ししたのが、震災後に聞かれた被災地の言葉だった。
平成23年の思い出が、暗く辛い大震災のことばかりでは悲しすぎる。こういう時だからこそ、いい思い出も必要だ。
S君は家族や友人の前で、太鼓を叩き横笛を吹き鐘を叩いた。たった一夜の数時間ではあったが、S君の顔は汗と涙でくしゃくしゃだったそうである。