草野球とアメリカン・フォークが好きな「村長」です
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寒い!というのは大袈裟なれど、今日の最高気温は24℃。昨日から7度も下がって、日陰では秋風のような涼しさを感じる。煤けた赤色のアキアカネが隣の空き地を滑空している。
昨日、知人がロ-カルテレビに出る、というので番組を見ていたのだが、その他大勢の中に埋もれて確認できず。その番組とは、平内町で行われた「高橋竹山生誕100年祭」。
竹山(ちくざん)と言えば津軽三味線の第一人者。12年前に亡くなったが、その流派はトップの座を保っている。100年祭には竹山の弟子たちが勢揃いし、三味線の合奏や民謡の手踊りなどで盛り上がったそうである。PR
今年の夏は猛暑続きで、「熱中症の救急搬送回数、昨年の4倍」とか「・・・5倍」、「・・・19.8倍」や、「熱中症の死亡者数、昨年の○○倍」、といったニュースが目に付いた。
しかし、サンプル数の少ないデータで、何倍かを言われてもなあ。例えば昨年の巨人軍高橋吉伸選手の打率は0.000だった。でも、もし次の打席で一本ヒットを打っていれば打率は一気に0.500に跳ね上がっていた。1打数0安打だったからである。この理屈で言えば、0倍(ゼロ倍)の方がよりインパクトがある。つまり、昨年はゼロ人だったが今年は○○人の場合、何倍という表現は意味を持たなくなる。
さて、本題。イントロ長過ぎ!
原監督にお願い、坂本選手は一番で使って欲しい。確かに打撃不振気味で、守備にも覇気が感じられない場面も見かけるが、下がってきたとはいえ打率0.300で、二塁打数、得点数はチーム一番、足で稼いだ得点も多い。 喝を入れる意味で8番に降格させるのもいいが、彼の足は魅力だ、本塁打19本も相手してみればかなりの脅威のはず。今年一年、一番、三番、四番は変えない方針を支持する。
問題は投手陣。先発が序盤で大量失点、それもビッグイニングを作られてしまう。今日からは最下位横浜戦。ベイファンには悪いが、この三連戦を機に投手陣の建て直しを期待する。ここからの二ヶ月間の目標は、阪神との負け数の差をなくすこと!!
昨年、無念の引退を決断した元阪神の赤星憲広氏の解説が面白い。5日の阪神vs巨人戦の解説者が赤星氏だった。阪神の先発は久保投手。巨人はハーラートップタイの東野投手だ。
両投手とも完璧な立ち上がりを見せる。特に久保投手は坂本、松本、小笠原の三人を落ちるボール球で三振に切って取っていた。
ここで、赤星氏。「東野投手は緩急織り交ぜ、制球も完璧。一方の久保投手は完全なボール球を打者が力んで空振りしただけで、制球力に問題がある」
村長は久保投手の方がはるかに調子がいい、と思っていたので彼の見方は意外な感じがした。
ところが、二回裏の巨人の攻撃で、赤星氏の解説が的を得ていたことが証明される。ラミレス、阿部を四死球で歩かせると6番高橋吉伸に先制3ランを浴びる。さらに安打を連ねられ、この回5点を失ってしまう。5回を安打一本無失点に抑えた東野投手と明暗が分かれてしまった。久保投手の生命線である低めのボール球を見極められると苦しい。
その後も、盗塁に関してや、打席での打者の心理などを実体験をもとに、自身のエピソードなどを織り込んで解説。ルーキーとは思えない心地よい(巨人が快勝したから?)解説だった。
全国的に暑い日が続いてますが、ここ青森の今の寒暖計は36℃を指している。なんでも11年ぶりの猛暑だそうだ。三年ぶりに稼働しているエアコンに感謝の毎日である。
父の葬儀(家庭内葬)のために帰青した次女は、東京の方が涼しい、だとさ。今日の気象情報でも東京は32℃、青森は36℃という最高気温予想である。
亡父の話を一つ。
父は大学生の時海軍に入隊し(強制連行?)、中国で終戦を迎えた。多くの軍人同様極度の食糧難から胃腸をこわし、帰還後40代で十二指腸をわずらい、以降直腸、小腸、大腸と腫瘍(ガン)は広がってしまった。最初の手術は生存確率20%と言われ、生後一週間の長女を連れて毎日病床の父を励ましたものだ。
そのとき執刀した日赤の担当医師は、戦傷病者の認定を受けろ、と進言してくれた。しかし、父はそれを固辞した。国のために戦ったんだ、という一種の誇りからか、あるいは命を落とさずに帰れただけでも幸せだった、と思ったのかは、もう知る由も無いが。
さて、父にごめんなさいを一つ。村長が5,6歳の頃、父の机の引き出しの中にピカピカに飾った懐刀のような長さ30cm位の模擬刀を発見。いとこや叔父さんとチャンバラごっこをして、汚してしまった。元々刃はついてない刀身は一部メッキが剥げて、サビで茶色になってしまった。それを机の引き出しに戻して知らない顔をしていた。
結局、この件で父に叱られた覚えはない。そして誰に対しても、一度も手を挙げたことは無い父だった。
28日、父が永眠いたしました。
満88歳でした。