草野球とアメリカン・フォークが好きな「村長」です
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1945年8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦争行為を停止したが、8月9日に対日参戦したソ連軍は、これを無視し当時大日本帝国領であった樺太に侵攻した。
ソ連軍の攻撃から避難させるため、大津敏男樺太庁長官は、長官命令で、婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした。
小笠原丸が攻撃を受けたのは22日の午前4時20分頃。留萌沖で魚雷により撃沈され、638名死亡、生存は61名だった。続く5時13分には第二新興丸が魚雷により大破。400名あまりが犠牲になった。泰東丸沈没はまさに惨劇だった。午前9時52分浮上した潜水艦の砲撃を受ける。貨物船だった泰東丸は戦時国際法に則り白旗を掲げるも、潜水艦はこれを無視し攻撃を続行。
防衛省によれば、三船の死者・行方不明者は1658名とされている。
以上、ウィキペディア「三船殉難事件」を参照
「血染めの米」とは、留萌港に自力でたどりついた第二新興丸の積荷の米が犠牲者の血で染まっていたことからその名がつた。
21日49回目の慰霊祭が留萌市の了善寺で行われ、今回初めてこの「血染めの米」が遺族らから持ち寄られ供養された。北海道、青森県などから生存者や遺族ら30名が参列した。
91年のソ連解体後、三船を攻撃したのがソ連の潜水艦であることを証明する資料が出てきた。遺族会は毎年外務省を通じてロシア政府に謝罪を求めているが、回答は得られていないという。
この理不尽な殉難事件や、8月が「北方領土返還要求運動強化月間」であることは、意外と知られていない。配慮が国益と考える者は、外交に携わって欲しくない。